2019/11/06

日記

 「HELLO WORLD」と「蜜蜂と遠雷」を立て続けで見た。


 「HELLO WORLD」は UDCastで視覚障害者向けの音声ガイド付きで見たのだが、この音声ガイド機能というのが私のような晴眼者の複数回鑑賞者にとっては親切でありつつ恐ろしいシステムだった。視覚要素でのみ説明されている演出のうち、私が何を見落としていたのかを気付かされてしまう! どこかテストの採点を目の前でされているようなそんな心持になっていた。別に気づけなかった要素があったとしてもこの映画を私が初見でとても楽しんでいたのには変わらないのに…… えっ階段を下りる直前の一行さんが「何に気づいた」のか私以外みんな理解してたりするの? 気づけていないのは私だけ? ちなみに一行さんが何に気づいていたのかは集英社みらい文庫版のノベライズにはちゃんと書いてあったので私同様気づけなかったお友達は本屋さんでチェックしてみよう! 小説版にはその部分の描写は一切ないぞ! 重要な要素とそうでない要素の半公式見解が得られることがわかったので、また同じ映画を複数回見ることがあればUDCast使ってみようと思う。

 これは単なる私の印象だけかもしれないけれど、映画通の人たちはよく「邦画は説明過多、作り手はもっと観客を信頼してもいい」と言っている気がする。上述の内容でも分かるように映画リテラシーのない人間としては「それは皆さんが頭が良くて映画慣れしてるから理解できるのであって、全然理解できない人間もここなどにおります、まあスクリーンの外に説明してくれる人をたくさん見つけられるのが今の時代ですし説明過多のほうが望ましいと主張したいわけでもないですが……」と思っていて、今日もまたそれを反復し、その状態で「蜜蜂と遠雷」を見た。原作未読。

 違和感を最初に覚えたのは「カデンツァ」という音楽用語について作中で一切説明されなかったことだった。今検索して意味を知った。カデンツァを知らないのは単純に私の教養不足かもしれないが、かといって万人が知っている用語でもないと思う。一般的でない言葉を作中で出すときに無知なキャラクターと説明役を置けば自然に観客に意味を伝えられるなんてことは創作活動を一度もしたことのない私ですら知っているし、実際本作でも架空のコンクールである「芳ヶ江国際ピアノコンクール」の説明はその手法でなされた。つまりこの映画は、そういう映画なのだ。そして、この映画には作中のキャラクターのモノローグもないことに気づく。ひとつ前に見た映画がエモーショナルなセリフとエモーショナルな音楽で畳みかけてくる映画だったので落差にくらくらした。この映画は登場人物の会話と亜夜の回想シーンを手掛かりにして、松岡茉優を「読む」映画なのだと思った。作り手は松岡茉優を、出演者たちを、自分たちを信頼していて、私たち観客のことも信頼している。素材の味。私は機微を読むことを求められていた。うーん!!!!!! これ原作どんな感じなのか気になりました! 原作を愛している人たちの語り口とこの映画の(不親切なという意味ではない)突き放し方が頭の中でうまくはまらない。これ原作に忠実だったりするのかな…… 見る前の私は4人が平等に扱われる群像劇なのかと思っていたが明らかに亜夜中心で、塵、マサル、明石はそれぞれ亜夜の過去、(あったかもしれない)現在、(やってくるかもしれない)未来なのかなと思っていたがつかみきれないままエンドロールがやってきて、私はこの映画をうまく受け止めきれなかった。そんな松坂桃李祭でした。
 
「HELLO WORLD」について書いておこうかなと思うことが一つあるので元気があれば書きます

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